<ゴンゾーさんのレフェリー・コラム>  
レフェリーはゲームに不可欠な存在でありながら、彼らの言い分はほとんど表に出ません。レフェリーの現状、レフェリーの限界、そしてレフェリーの夢…。プロのレフェリーを目指す“ゴンゾーさん”が飾らない気持ちをつづります。
〈2〉『パシフィックオーシャンを渡った日』(2004.04.06)
 その日は、ちょうど火曜日だった。大学生活最後のお正月、年が明けてすぐだった。大学の卒業式を待たずに、私は次の夢に挑戦するべく渡米した。

行かないで後悔をするよりも、行ってだめで納得した方が絶対に良い
 その前に様々な方に相談したり意見を求めたりしたが、私の周りにいた友達は“無理だから辞めといた方がいいよ”という意見が多かったのを覚えている。未知の世界―誰かがやっていてその人の後を追うのではなく、何のつてもなく、ただ“行きたい”という気持ちだけっだった。特に心配をしていたのは両親だと思う。今でも“アメリカに良く行かせたね”ということを言われるらしい。

 私がその時考えていたのは、無理だと言われて行かないで後悔をするよりも、行ってだめで納得した方が絶対に良いということだ。人生は1度きり、若いうちにやらなければ後では絶対に出来ないし、今やりたいし、やってやると思っていた。そうして誰も知らないなかで、こっそりと海を渡った。日本ではちょうど、オールジャパン(全日本選手権)で盛り上がっている時だった。

いつになったらレフが出来るのだろうと焦る日々
 カリフォルニアのロサンジェルス空港に着くと、ほっとする間もなく新しい試練、英語との格闘が待っていた。英語自体は大嫌いで大の苦手。でも周りの方達から“アメリカでレフをするにはせめて聞けて話せないと駄目だよ”と言われていたので、英語から逃げることは出来ないと感じていたし、逃げることはもっと嫌いだった。

 バスに乗っても乗り方も降り方も分からず、行った次の日に2時間以上も道に迷うことになったり、ファーストフードでもろくにオーダーが出来なかったり。まず英語の勉強だと思いつつも、でも心の中はいつになったらレフが出来るのだろうという焦りでいっぱいだった。様々なハプニングと戦いながら、週末は極力バスケの試合を見に行ってはレフを捕まえてレフがしたいと拙い英語で訴え続け、名刺をもらうと毎日のようにメールを送っていた。また、あるデイビジョン1の学校のバスケット部の監督の部屋に“レフをやらせてほしい”と毎日訴えに行った。練習も毎日覗きに行き、なるべく監督と目を合わせられるようにしていた。どこかのチームのマネージャーになろうともしていた。マネージャーなら、練習中のスクリメージでレフをやらせてもらえると思っていたからだ。

 そんな日が続き、レフが出来ない日が続いていた。しかしあるきっかけから、今では私のレフの指導者でもある“彼”と出会うことになった。それは、渡米してから8ヶ月後のことである。
(続く)
大河原 則人(愛称:ゴンゾー)
1979年生まれ。中学よりバスケットを始め、日体大バスケット部にてレフェリーを始める。NBAのプロのレフェリーを目指し、大学4年時に卒業を待たず渡米。審判への熱意でカレッジキャンプや日系リーグで笛を吹くチャンスをつかみ、今年はABAのスクリメージでも経験を積んでいる。

バックナンバー

〈1〉『ひねくれもののレフ、彼がレフを目指すまで 』
(2004.02.20) ・・・こちら

<構成 北村美夏>

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