<デフ男子日本代表>
〈2〉『会長で代表で社会人。』
日比野 隆
175cm/F

代表チーム最年長の日比野は、デフバスケ協会設立の立役者。それでも「自分は若いので会長って言ってもなかなか信じてもらえないことがあります」。仕事も入れたら3足のわらじをはくが、それでも笑顔が絶えないのはデフバスケの成長ぶりを1から感じているからだ。

自分の持ち味をよくわかっていて、それを生かそうとする向上心のある選手。だからこそ林HCは逃げていたら厳しいことも言う。だがそれを受け入れる打たれ強さも持ち合わせる、チームの精神的支柱。

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バスケットを始めたときのことを教えてください。
「中学校で先生にすすめられて。仲の良い友人もバスケ部に入るということで決めました。小学校のときもミニバスをやっていましたが、本格的にはやっていませんでした。本気でうまくなりたい、と思ったのは高校からです。高校は県でベスト8に入るような強いところで、鍛えられました。」

ベスト8!今思い返してみると、どんな高校時代でしたか?
「友達がいっぱい出来ました。でも体力より精神的に厳しかったです。レギュラーになれず悔しい思いをしたり…実力世界だから。でも辞めないで3年間続けて良かったです。同期が最初は30人いたけれど、最終的に残ったのは10人。その中で続けたおかげで、自分よりうまい人とやれてうまくなれたし、こうして代表にもなれたと思います。」

バスケットをやっていて良かったこと、逆に大変だったことは
「良かったことは、たくさんの出会いがあったこと。今こうしてろうの皆と楽しむことが出来るのもバスケットのおかげです。それから協会を立ててから盛り上がっているので、作って良かったなと思います。
大変だったことは…、あまり昔のことを意識しないから思い付かない(笑)。いつも今を楽しむことを大事にしているので。しいて言えば、中・高の練習が厳しかったこと。何度も辞めようと思いました。頑張っているのに出してもらえない理由がわからなくて、聞えないせいかなと思ったこともあったし、指示がわからなくてストレスを感じたこともあった。でも、自分で1回決めたら最後までやるって決めていたんです。先生もそれで受け入れてくれて、“必ず見てプレーする”ことも言ってくれたし。それで先に言ったように得るものもたくさんあったので、やっぱる“大変な思い出”とは思わないですね。
バスケットでは、聞こえないことは関係ないように思います。ボールを使ってコミュニケーションできるから。むしろ、友達と遊ぶ時に不便だなって思いました。小学校までは体を使ってわーっと遊ぶけれど、中・高と年が上がると言葉でのコミュニケーションが中心。例えば、打ち上げに行っても、輪に入れなかったりとか。」

どうして協会を作ろうと思い立ったのですか?

「学校を卒業してからもバスケットがしたくて、7年前に岡野(泰行・現女子日本代表監督)さんと大阪にチームを作りました。岡野さんは愛知に作って、それで2人で話して全国でやったら盛り上がるんじゃないかとなったんです。それで1人1人連絡して、出来立てのチームで集まって大会をしたら評判がよかった。交流が出来て楽しかった、またやりたいと参加した人たちが言ってくれたんです。バスケットを好きな人は意外に多かったんですね。それで連絡を取り合って各チームの代表が集まって話す場が出来て、役割分担が進んで今の協会の原型になりました。当時は全国ろう大会の種目にバスケットはなくて、実現には協会が必要ということだったし、デフバスケ人口を増やすためにも設立しようとなりました。」

選手と協会を掛け持ちする難しさはありますか?

「ずばり板ばさみになること。言い分がぶつかることがよくあるんですね。お金の面とか…。。ミーティングでそういう話になると自分に視線が集まる(笑)。でも協会で運営の話をしている時、代表についての話になるとあまり言えない。自分に都合の良いようにしていると思われたくないんです。」

チームでの役割や自分の持ち味、課題は何だと思いますか?
「持ち味はジャンプシュートとアシストパスです。課題は、いいところがシュートなのに思いきりがないこと。メンタル面が弱いんですね。 」

最後に、日比野選手にとって“代表”ってどんなものですか?
「僕らは日本のろうの代表。だから責任感を持って頑張りたい。代表が盛り上がれば、今後につながると思うから。だからデフリンピックでもいい結果を出したいですね。3年前は全負けだったけれど、今回はメダルを持って帰りたいです。」

(2004年6月13日インタビュー)

<取材・文 北村美夏>

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