<ゴンゾーさんのレフェリー・コラム>  
レフェリーはゲームに不可欠な存在でありながら、彼らの言い分はほとんど表に出ません。レフェリーの現状、レフェリーの限界、そしてレフェリーの夢…。プロのレフェリーを目指す“ゴンゾーさん”が飾らない気持ちをつづります。
〈4〉『我が師匠 その名はミスター・ヒュウ』その2(2004.04.27)

ヒュウ・ホリンズを尋ねていってから約2週間経った後だった。ヒュウから電話があり、“明日夕方、私の家に来なさい”といった内容で、それに対して喜んで行きますと答えた。その時彼は、審判の出来る準備をしてこいと付け加えて言った。

私の返事はもちろん、“喜んで”。そして、一緒に練習場にいった
次の日、今度は迷子になることもなく無事彼の家に着くと、彼は私のことを待っていてくれた。再会する際彼は言った。「私の息子マイケルの練習があるから、そこで審判をしてほしい」。私の返事はもちろん、“喜んで”。そして、一緒に練習場にいった。

練習と言うと室内のバスケットコートを思い浮かべがちだが、行ったのは外に8面のバスケットコートがある中学校のグラウンドだった。そこでは、子供達の親がコーチで、たくさんの子供達が練習をしていた。そんな中、1人私に向かってくるアフリカンアメリカンの選手がいた。その彼はとてもハンサムで歯並びが良く礼儀正しい中学生だった。
「Nice to meet you.My name is Michel, how are you doing?」

“この息子達の練習の試合をレフしてくれ”
そう、その彼がマイケルだった。初対面の私に対して彼は本当に紳士的な振る舞いをしてくれた。そうして挨拶が終わると、ヒュウにこの息子達の練習の試合をレフしてくれ、と言われた。ヒュウはこのマイケルのチームのコーチをしていたのだ。

このときもそうだったが、いつも周りにいる人達にはじろじろ見られた。やはりアジア人がなんでこんなところにいるのだろうと思っていた人は多かったと思う。そんな中私は、そのマイケルのチームのスクーリメイジ(試合形式の練習)をレフした。誰も笛を吹いている人なんていない、外の8面もあるバスケットコートでレフをした。当然注目度は高く、“なんでこんなところでピッピ、ピッピしてるんだ?”“あの男は馬鹿”かという目で見ている人もいた。

しかし、それがずっと描きつづけている夢への前進であり、これから待っている様々な出来事の始まりだった。

(次回分は来週掲載です!)
大河原 則人(愛称:ゴンゾー)
1979年生まれ。中学よりバスケットを始め、日体大バスケット部にてレフェリーを始める。NBAのプロのレフェリーを目指し、大学4年時に卒業を待たず渡米。審判への熱意でカレッジキャンプや日系リーグで笛を吹くチャンスをつかみ、今年はABAのスクリメージでも経験を積んでいる。

バックナンバー

〈1〉『ひねくれもののレフ、彼がレフを目指すまで 』
(2004.02.20) ・・・こちら
〈2〉『パシフィックオーシャンを渡った日』 (2004.02.06) ・・・こちら
〈3〉『我が師匠 その名はミスター・ヒュウ』 その1(2004
.04.20) ・・・こちら

<構成 北村美夏>

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