<ゴンゾーさんのレフェリー・コラム>  
レフェリーはゲームに不可欠な存在でありながら、彼らの言い分はほとんど表に出ません。レフェリーの現状、レフェリーの限界、そしてレフェリーの夢…。プロのレフェリーを目指す“ゴンゾーさん”が飾らない気持ちをつづります。
〈7〉『レフェリーキャンプ』(2005.06.10)

キャリアで初めてのレフェリーキャンプに参加
シマウマのユニフォームをヒュウ・ホリンズからもらった2日後、キャリアで初めてのレフェリーキャンプに参加した。もちろん知っている仲間などいない、どのようなものかもわからなかった。もっと大変だったのは、レフェリーのシグナル・動き方・そして高校生の試合のルールを知らなかったことだった。なぜならその時、やっとヒュウ・ホリンズの息子、マイケルの試合を吹かせてもらえるようになったばかりでルールブックなど持っていなかった。
その中で、1番自分を情けないなと思わせたのは英語だった。8ヶ月の間で少しづつは上達していたが、早口で言われるとわからなかった。

何かを学ぶのなら自分の意志で、自分でお金を出して
キャンプ初日、集合場所の部屋に行くと先に来ているキャンパー(キャンプに参加する他のレフェリー)にジロッと見られた。1人2人ではなく、何人にもだ。日系人(アジア系ハーフ)は何人かいたが、純粋なアジア人は私1人だった。
そんな中、キャンプは進められた。まず、名前が呼ばれキャンプの要項・参加記念グッズの配布があり、その後は自己紹介があった。たくさんのキャンパーが名前とどこから来たのかを言っていた。私も皆と同じように名前とどこから来たかを言った。
“My name is Nori. I'm came from Orange County.”
アメリカのレフェリー仲間の間ではノリと呼ばれていた。何故このようなニックネームを選んだかと言うと、短い名前でアメリカ人にも発音しやすいからだった。そしてオレンジカウンテイ、決して日本から来たとは言わなかった。なぜなら、そう言うことで日本人に見られるのが嫌だったし、そのせいでお客さんになるのは絶対に嫌だった。あいつはいつか日本に帰る、そうおもわれるのが大嫌いだった。誰かのルートを使い、全部セットしてもらって、そのキャンプにかかるお金まで全部出してもらって行くようなことでは何も学べない。何かを学ぶのなら自分の意志で、自分でお金を出して学ぶものだと思う。いつも成長したいと常に思っていたし、その気持ちは今でもかわらない。

講義が始まると、録音用のテープを片手に真剣に取り組んだ。言っていることはわからないことも多かったが、楽しいこともあった。その時のアメリカ人のレフェリーの印象は今でも忘れない。体が大きく背も高く、その顔は誇りに満ちていた。カッコよかった。

そうしている間にコートでの実技が始まった。
そんな時、また、他のキャンパーと違うことに気づいた。

(次回分は来週掲載です!)
大河原 則人(愛称:ゴンゾー)
1979年生まれ。中学よりバスケットを始め、日体大バスケット部にてレフェリーを始める。NBAのプロのレフェリーを目指し、大学4年時に卒業を待たず渡米。審判への熱意でカレッジキャンプや日系リーグで笛を吹くチャンスをつかみ、今年はABAのスクリメージでも経験を積んでいる。

バックナンバー

〈1〉『ひねくれもののレフ、彼がレフを目指すまで 』
(2005.02.20) 
・・・こちら
〈2〉『パシフィックオーシャンを渡った日』 (2005.02.06) ・・・こちら
〈3〉『我が師匠 その名はミスター・ヒュウ』 その1(2005 .04.20) 
・・・こちら
〈4〉『我が師匠 その名はミスター・ヒュウ』
その2(2005 .04.27) 
・・・こちら
〈5〉『我が師匠 その名はミスター・ヒュウ』 その3(2005 .05.12) 
・・・こちら
〈6〉『シマウマユニフォーム』

(2005.06.01) ・・・こちら

<文 大河原則人(ゴンゾーさん)/構成 北村美夏>

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